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プロフィール

静岡から国政へ、国民民主党 幹事長として地域課題に挑むしんば賀津也。その歩みや人柄を通して、政治へ懸ける情熱と信念をご紹介します。

榛葉賀津也

榛葉 賀津也

  • 1967年(昭和42年)4月25日生まれ
  • 参議院議員(4期目)
  • 選挙区/静岡県選挙区
  • 得意分野/外交(特に中東問題)、防衛、エネルギー問題
  • 家族/ 妻、一男二女・犬・ヤギの家族
  • 趣味/大相撲観戦、ラーメン店探訪

政策につながるヒストリー

1

地域で培った生活者目線が政策の土台に

幼少期、静岡県菊川町で戦争遺児の両親のもと厳しく育てられ、5歳から8年間、毎朝牛乳配達を続けた経験は、地域で生きる人々の努力や中小商店の底力に触れる機会となる。こうした体験が、一人ひとりの暮らしを出発点に、雇用や中小企業支援などの政策を考える基礎になっている。

自転車のイラスト
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厳しいしつけと学びへの姿勢が教育・労働改革の視点に

家庭での厳しいしつけや「アルバイト禁止」校則への気づき、さらに留学経験を通じた学歴主義への疑問などから、固定的な教育制度や働き方ではなく、多様な生き方を支える仕組みが必要だと考えるようになる。この視点は、後に教育改革や働き方支援、子育て政策など、幅広い分野で活かされている。

勉強のイラスト
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スポーツと海外経験で培った合意形成力と国際感覚

高校では野球部に入り、補欠ながらチームを支える「三塁コーチ」として仲間を鼓舞し、米国留学とイスラエル・パレスチナでの生活を通じ言語や文化の壁を克服。多様な背景を持つ人々と交流し、対話と粘り強い努力で課題を乗り越える力を獲得する。これらが、外交や安全保障分野での合意形成や「対決より解決」を重んじる政治姿勢へとつながる。

団結のイラスト
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「あすなろ」に込められた成長と共生の精神

幼少期の「あすなろ」の森に込めた「明日は檜のように大きくなろう」という未来志向と、先人が満州で描いた「崑崙(こんろん)の上にかかる霓(げい)」の理想は、地域での経験と国際的視野と重なり合い、対決より解決を目指す榛葉賀津也の政治理念を支える原動力となり、今も政策に深く息づいている。

木のイラスト
5

地方から国政、そして国際舞台への実践と改革意欲

菊川町議会議員、防衛副大臣、外務副大臣などを歴任し、地方政治から国政、そして国際舞台まで幅広い経験を積む。特に外交・防衛分野での実践を通じて、国際社会における日本の役割と責任について深い見識を得る。現在は国民民主党幹事長として、国内外の課題解決に向けて積極的に取り組んでいる。

海外へのイラスト

経歴

静岡県菊川市生まれ
戦争遺児の両親のもと、厳しい家庭環境で育つ
静岡県立掛川西高等学校 卒業
野球部で三塁コーチを務め、チームワークの大切さを学ぶ
米国オハイオ州オタバイン大学国際問題研究学部卒業 イスラエル国立ヘブライ大学大学院国際政治学部留学
国際感覚を養い、多様な価値観への理解を深める
菊川町議会議員 当選(1期)
地方政治の第一歩を踏み出す
第19回参議院議員選挙 当選(1期)
国政での活動を開始
第21回参議院議員選挙 当選(2期)
継続的な政策実現への取り組み
参議院外交防衛委員長 民主党静岡県連会長
外交・防衛分野でのリーダーシップを発揮
防衛副大臣(鳩山由紀夫内閣)
防衛政策の実務経験を積む
防衛副大臣(菅直人内閣)
引き続き防衛政策に注力
民主党政策調査会会長代理
党の政策立案の中心的役割を担う
参議院議院運営委員会筆頭理事
議会運営の要として活動
外務副大臣(野田佳彦第三次改造内閣)
外交政策の実務を担当
第23回参議院議員選挙 当選(3期)
さらなる政策推進への決意を新たに
参議院民主党国会対策委員長
国会運営の調整役として活動
民進党静岡県連会長 参議院民進党国会対策委員長
地域と国政の両面でリーダーシップを発揮
参議院内閣委員長
内閣関連の重要政策を担当
国民民主党参議院幹事長 国民民主党静岡県連会長
党の要職として政策実現に尽力
第25回参議院議員選挙 当選(4期)
静岡県選挙区から4期目の当選
国民民主党幹事長
党の運営と政策立案の中心的役割を担う
参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長
重要な地域課題の解決に向けて取り組む
国民民主党選挙対策委員長
党の選挙戦略を統括
参議院議員4期目
国民民主党 幹事長として活動中

所属委員会

国民民主党ロゴ
外交防衛委員会委員
国家基本政策委員会理事
政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員会

党職

国民民主党幹事長
国民民主党幹事長

所属議員連盟・役職等

【主に静岡県内関連】

  • 静岡県馬術連盟 会長
  • 静岡県行政書士会 顧問
  • 富士山世界文化遺産両県県民会議 顧問
  • 富士山の世界文化遺産登録推進議員連盟
  • 静岡県人会 相談役
  • 静岡県日中友好協会 顧問
  • 静岡大学法科大学院支援協会 特別顧問
  • 富士山静岡空港と地域開発をすすめる会 顧問
  • 静岡県フーバ協会 顧問
  • 静岡県鳶工業連合会小笠支部 顧問
  • 草笛の会後援会 顧問
  • 小笠地区中学校選抜野球団 名誉顧問 兼 規則指導員
  • 菊川ボーイズ 顧問

【連合等構成組織関連】

  • 車と社会を考える政策フォーラム 幹事
  • 明日の環境とエネルギーを考える会 副会長
  • 社会に貢献する電機産業を考える会
  • 国民民主党 電機商業振興議員連盟 副会長
  • UAゼンセン政治連盟友好国会議員懇談会 友好議員
  • ものづくり国会議員懇談会 幹事
  • JR連合国会議員懇談会 会長
  • 21世紀の鉄道を考える議員フォーラム 会長
  • 通貨事業等に関する政策議員懇談会
  • 全印刷顧問議員団会議
  • たばこ産業政策議員連盟
  • 駐留軍労働政策議員連盟
  • 交通運輸政策研究会
  • タクシー政策議員連盟
  • トラック議員連盟
  • オートバイ議員連盟
  • 有志議員によるバス政策議員連盟総会
  • 全日本分権自治フォーラム・政策研究会
  • 国民民主党と無所属議員による全建総連議員懇話会 副会長

【各種業界団体等関連】

  • お茶振興議員連盟 会長
  • 2020オリンピック・パラリンピック日本招致議員連盟 副会長
  • リアルジャパンプロレス コミッショナー
  • ハンセン病対策議員懇談会 副会長
  • ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会 事務局長
  • 脳脊髄液減少症を考える議員連盟
  • 障害者の自立のために所得向上をめざす議員連盟
  • 公益財団法人 全日本仏教会 仏教懇話会
  • 国民民主党 仏教議員連盟
  • 宗教と政治を考える会
  • 森林環境政策議員懇談会
  • 森林・林業・林産業活性化推進議員連盟
  • 有志による税理士制度推進議員連盟
  • 行政書士制度推進議員連盟
  • LPガス議員連盟
  • 郵政議員連盟
  • 日本鋳造産業振興議員連盟
  • 協同組合振興研究議員連盟
  • 街の酒屋さんと共に歩む議員連盟
  • 有志議員による建設職人の安全・地位向上推進議員連盟

【海外関連】

  • 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟 副幹事長
  • 日本の領土(竹島・尖閣諸島等)を守るため行動する議員連盟
  • 日ロ友好議員連盟 常任理事
  • 日華議員懇談会
  • 日本イスラエル議員連盟
  • 東ティモール議員連盟
  • 日豪国会議員連盟
  • JICA議員連盟

しんばヒストリー
〜出生から青年期まで〜

1967
出生時
1967年(昭和42年)4月25日に生まれた私。この時の我が家は、父母に姉兄、曾祖母に祖母に祖母の妹と私という8人家族。私の父も母も共に戦争遺児であったため、子供への躾、教育だけは厳しかった。生まれながらの小児ぜんそく持ちで、母親が毎日、電車で50分かけて静岡市内の日赤病院へ通ってくれた。
1970
三歳時
私の故郷は静岡県菊川町。当時は人口3万人程度のお茶が主産業の町だ。当時、我が家は20匹以上のウサギを飼育していて、ウサギへの餌やりは子供たちの仕事だった(写真左側にウサギ小屋があった)。時折、薬品会社の男たちがやってきて、何匹かのウサギをまとめて持って行ったのを記憶している。(それが何を意味しているのかを理解したのは、相当後になってのことだった・・・)以前、父に「なぜウサギ飼ってたの?」と聞くと、「だってお父さん、うさぎ年生まれだから・・・」の答え。解かりやすいというか、意味不明というか・・・。(中央が私、後が姉、右が兄、左は近所の沢崎かよ子ちゃん)
1972
幼稚園年長
かけっこ、いたずら・・・なんでも一番にならないと気が済まなかった堀之内幼稚園年長児の私。人生最初の恩師である加藤美枝子先生には、今でもご指導を頂いています。この頃から、厳格な父の「命令」で牛乳配達を始める。以来、8年間毎日、牛乳配達を続けさせられたが、今ではいい思い出。いまだに地元のおじさんやおばさんから「かづやクン、よくやったよねぇ~」と言われるが、自分でも「そう思います」。
1973
小学校
私の人間形成に最も大きな影響を与えてくれたのが、この堀之内小学校時代。4・5・6年の担任だった鈴木孝治先生(右から3人目の先生)と当時の太田勝昭校長先生(写真左端)の授業や指導は今でも私の全ての原点。今では、「人生」と共に「お酒」のご指導も頂いている。
1979
中学・高校時代
中学では野球部に所属。「投手」として活躍したが、肩を痛め、高校では「マネージャー」に。高校時代は生徒会長として、「学校改革」を進めた。その一つが「制服自由化」。当時としては画期的な改革だったが、今では「学生服」は完全になくなってしまった。
1985
アメリカ時代
高校卒業後、渡米。米国に着いてまず驚いたのが、日本人学生の多いこと。そして彼らの多くが日本人同士で固まっていること。今だからわかることだが、この時点での「生活の仕方の選択」が、留学の"勝ち組"と"脱落組"との明確な分岐点になる。辛かったが、私は「英語がものになるまで日本人であることを隠そう」と覚悟を決めた。国籍不明の"謎の東洋人"に成りすました。これなら誰でも私に英語で話しかけなくてはならない。この作戦は成功した。おかげで、良質の米国人とも素晴らしい人間関係を築くことができた。この頃は自分でも本当によく学び、よく働いたと思う。 5年間の米国生活で、素晴らしい米国、独善的な米国など、様々な米国を学ぶことができた。米国には問題点が多い。しかし、米国と米国人は恐ろしいほどの包容力とダイナミズムを持っている。米国人のメンタリティーや生活習慣を知らずして、米国の政治は理解できない。米国での大学時代で、政治の基礎を学ぶことができたと同時に、国際社会の中で生活していく上での「基本的なルール」を学ぶことができた。貴重な5年間だった。
1990
イスラエル時代
イスラエルでの生活は、私の人生観をさらに大きく変えた。「命の大切さ」「平和の意味」を、身をもって体験した。イスラエルという国は、常に戦争の危機と隣り合わせ。それでも人々は、たくましく生きている。そんな姿に、大きな感銘を受けた。

著作

未来をつかみとる若き地方議会人たち』(共著)/ぎょうせい1998
民主党の若手国会議員は何を考えているのか?』(共著)/ワンツーマガジン社2007
ミャンマーという特別な国』(共著)/富士社会教育センター2010