しんば賀津也
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しんば賀津也 プロフィール

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しんばヒストリー〜出生から青年期まで〜
中学・高校時代

三塁コーチャーエピソード 「攻めが甘かった」名コーチ榛葉選手

(1985年7月26日 朝日新聞より)

 「悔しくて、悔しくて・・・・・・」。

敗戦と決まった瞬間、掛川西の三塁コーチ、榛葉選手は、顔をクシャクシャにしながらグラウンドを両のこぶしで何度も何度もたたいた。

 相手校、静岡商は県内屈指の名門校。攻撃のたびにコーチに立ち、噴き出す汗を懸命にぬぐいながら、榛葉は声援を送る。豊かな表情と体全体を使った大振りのアクションが、選手たちの緊張を和らげる。だれもが認めるチーム一のムード作りだ。

 榛葉が野球を始めたのは小学生のころから。だが、これまで正選手になったことはもちろん、ベンチ入りしたこともなかった。野球に対するひたむきさと、チームのムードを盛り上げる不思議な才能を監督に買われ、今年から三塁コーチとしてベンチ入りした。

「日本一の三塁コーチ」を自負する榛葉は、「三塁コーチは得点につながる重要なポイント」と誇りを持って話す。

 掛川西はこの日、前半に4点をリードし、静岡商を完全に抑えていた。しかし、7回、静岡商・古谷の本塁打で立場は逆転。選手たちは焦り始めた。

「あのホームランで勝敗が分かれたのじゃありません。うちは再三のチャンスを生かせなかった。攻めの甘さが原因です」と、試合を振り返る。

 グラウンドでは次の試合の練習が始まった。最後に残った榛葉は、自分の手のひらを見ながら泣いている。グラウンドをたたいた両手のこぶしの中に、土にまみれて「打倒静商」の四文字がまだはっきりと読み取れた。

甲子園エピソード 甲子園

(2001年 産経スポーツ新聞 コラム「甘口辛口」)

 参院選の静岡選挙区で2位当選した民主党新人の榛葉賀津也さん(34)は高校(掛川西)時代、甲子園を目指した球児だったそうだ。ただし、レギュラーではなく背番号『15』の控え選手である。

 今年刊行された掛川西高野球部100年史には、昭和60年夏の県大会でこんな記述がある。『・・・必死の粘りを見せたが、逆転には至らなかった。翌日の新聞には三塁コーチの榛葉がうずくまる姿が大きく掲載され、"生涯一サードコーチ"とたたえられていた』。

 高校時代、イラン・イラク戦争に関心をもち中近東の本をむさぼり読み、米国の大学を卒業後、イスラエルの大学に留学し国際平和問題を研究した。帰国後、26歳で菊川町議に当選。ときには大胆な判断力を必要とする三塁コーチの経験を人生にも生かした。そのかたわら、高校野球の一級審判の資格をとり県大会の審判も務めた。「自分のジャッジで子供たちの人生まで変えたくない」と冷静なジャッジを心掛けている。

 選挙戦で前面に押し出したのは若さと元球児。野球を売り物にしすぎると、野球の嫌いな層から反感を買うのではという懸念もあったが、選挙の時期もよかった。人柄もあってか、野球部の先輩や同期生が次々に友情応援を買って出た。『目指せ政治の甲子園』の横断幕をバックに学ラン姿の『コンバットマーチ』で、大いに盛り上がったという。

 元プロ野球選手、元力士、女子プロゴルファー、元フィギュア選手・・・と、参院選にはスポーツ関係から続々立候補し、大方の予想通りの結果に終わった。過去の名声だけで当選できるほど選挙は甘くない。『15』番の当選がそう教えているようだ。

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